聖書感想文の記録

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地の出現

>神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。(創世記1:9,10)

 

地は創造の第三日目にようやく形を現し「地」と名づけられた。
命名に先立ち存在していたということでは「闇」もそうである。
「光」は神が命名と同時に創造された。
創造の第一日目には時も創造されたといえる。昼と夜というかたちで。

人が住む地が現れるには水の量が多すぎるので、水を分けた。

>神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」(1:6)

 

天は創造の第二日目に大空として出現し、「天」と名づけられた。

天と地のことについては以上のように明確に書かれている。

 

創世記1章2節の「トフ&ボフ」については古来より議論の的となっており「諸説あり」の状態であるが、「人間の理解の及ばない状態」を表しているのであろうというのが最近の傾向のようである。

聖書 新改訳2017では<茫漠として何もなく、>と訳されている。
この1章2節の「トフ&ボフ」で立ち止まってあれこれ考えていれば想像は拡がるばかりだが、9節、10節まで読み進めればそのような想像は必要ないことがわかる。
何しろ元々は水の下にあったのだから2節でその時点のことを書くとしたら

 

      「形も姿も形容のしようがない」(70人訳ギリシャ語)

 

という表現になると受け止めればよい。

この「人間の理解の及ばない状態」をあえて理解力の範囲内に引き下げるとしたら、泥水が挙げられよう。

泥水はやがて泥が沈殿してゆきその上の水は澄んでゆく。
上澄みの水をすくい上げていき、ぬかるみ状態になったところで泥を掬い取って穴を作ると泥に含まれた水はそこに溜まってゆき泥は乾いて土になる。

 

さて、再創造論者はこの「トフ&ボフ」を「堕天使によって汚された地への報復の跡」だといい、

      動詞「~であった」を「~になった」と読む

 

ことを主張している。
この「トフ&ボフ」をネガティブな意味と捉え、

 

     神がそのようなものを創るはずがない

 

との発想から「~であった」ではなく「~になった」を採用するというわけだ。

 

       水から地が現れる

 

というのは、ノアの時も同じで、それはさばきの面もあったが、キリスト者にとっては

 

      バプテスマ

 

であり、その本体は

 

         キリストの復活

である。
十字架上のイエス、墓に葬られたイエスの型が「トフ&ボフ」だと見ればネガティブな意味を持たせることは適切ではなかろう。