イエスの信実と信仰義認(ガラテヤ書2章16節の文節構成から)
ガラテヤ書2章16節は述語ειδοτες(私たちは気付いた)の文と述語 επιστευσαμεν(信じた)の文から成っている。
この2つの文それぞれに使用されている語句「律法の行いから」(εξ εργων νομου)に着目する。
第一文ではこの語句が最初にきて読者に強く印象付ける。「人は律法の行いによってでは義とされない」と。
第二文では「キリストを信じることによって義とされる」が最初にきて、その後に「律法の行いによってではない」が続く構成となっている。
第一文では「εργων νομου」(律法の行い)を重要視していた人たちに
それだけでは足りない
ことを告げ、第二文では本質である
「キリストを信じることによって」
がまず示され、「εργων νομου」は否定語と伴ってその後に置かれている。
そして「εργων νομου」は否定の理由説明のために更に登場している。
この人間の側の応答に対し「εξ」を付していることに着目すると、「キリストを信じることによって」にも「εκ」が付されていることに気付く。
一方、第一文で義認に必要とされている「πιστεως χριστου ιησου」には「δια」という別の前置詞が用いられている。
「πιστεως」という同じ語が同じ節で用いられていることをもって、この2か所を同じ意味と解釈しなければならないとする論調が主流であるが、上記のように
文の構造と前置詞の使い方の違い
を考慮すると、
本来意味の広がりを持つ日常的な一般名詞である「πιστεως」
は当時のコイネーギリシャ語において
文脈に応じて解釈されるものであった
と考えて良いだろう。
整理すると、
人を主体として「律法を行う」と「キリストを信じる」が対比されている
ことが前置詞「εξ」と「εκ」の類似性から見て取れる。そして「εκ πιστεως」と
信仰の主体がの違うことを示すために
「δια πιστεως」とかき分けられている
ということである。
この「δια πιστεως」で示される信仰の主体とは、この語句の後に記されているキリストイエスである。
人がキリストイエスを信じることと、御子が御父を信じることが併せて記されているのがここ16節なのである。
被造物の救済を成就するという御父のご計画を信じ自らが御父と切り離され十字架にかかることを受け入れるに至ったという事実を抜きに義認は無いというのがここ16節の第一文ということである。
そもそも、
信じただけで何故救われるのか
という基本的な問いにはどのような解答が示されているだろうか?
人の信仰に御父がそれだけの価値を与えるのは、十字架の御業が御子の御父への信仰によるものであった。
だからこの16節ではあえて2つの信仰を重ね合わせたと解するべきであろう。