召しと選び
>「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」(マタイ22:14)
祭司長やパリサイ人たちに対して語られた結婚の披露宴のたとえ話。
婚礼の礼服を着ていない出席者が見とがめられ
<手足を縛って外の暗闇に放り出される>
という13節に続いて語られているので、
「招かれても選ばれない人もいるのだなあ」くらいに受け取ってしまいやすい。
しかしイエスは、選ばれる人は「少ない」と言っていることに注目しなければならない。
もし「選ばれない人」が「礼服を着ていない出席者」一人のことだとしたら、「選ばれる人」は多いので、イエスのことば矛盾することになる。
このたとえ話の前段には、招待した客が招きを「断った」ために大通りの通りがかりの人たちを招いたということが書かれている。
あらかじめ「招いた」客は来ないで、通りがかりに「招かれた」ひとたちで披露宴はいっぱいになった。
ところで、招きを断った招待客のことについては、披露宴の主催者である王は
>「招待した人たちはふさわしくなかった。」(8)
と言った。
このひとたちも「選ばれない人」にカウントされていると考えれば「選ばれる人は少ない」ということになるのではないか。
ところでこのたとえ話、飛躍が過ぎると感じないだろうか。
繰り返ししもべが遣わされ、果ては「捕まえ」られ「殺」されてしまう。
王はその報復に「軍隊を送り」、「町を焼き払った」。
飛躍しすぎているので逆に、イスラエルの背教、預言者迫害、バビロンの侵略だとわかる。祭司長やパリサイ人たちはその末裔である。
その彼らにとって「良い人でも悪い人」(10)でも王は招き、披露宴はいっぱいになった。
元々の招待は契約の民「イスラエル」に向けたものであったが、応じなかったことで選びから漏れ、穴埋めに「異邦人」にお呼びがかかった。
この招きの根拠は「キリストの十字架」である。
キリストが十字架にかかったことで「招き」は全人類に及んだ。
そしてこのキリストイエスを信じ受け入れることができた者が「選ばれた」者だと覚えたい。
最後に、「選ばれない人」としての婚礼の礼服を着ていない出席者について。
彼は招きに応じて披露宴に出席したが礼服は着なかった。
キリストの十字架で全人類が救われることを理解したが、キリストイエスを信じないという人が相当する。
既に神との断絶は回復されたのだから自分は神の国に入る資格がある、と主張するような人。しかし悔い改めのない、自分自身を十字架にはり付けていない人。
<私はキリストとともに十字架につけられました>という告白は、神に「選ばれた」者にしかできない霊的な行為である。
そこに到達できる者が「少ない」ことは否定しがたい事実である。